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窪野へ 弘法大師から一遍上人へ
(平安時代から鎌倉時代の久谷地区)
愛媛県松山市の南端にある久谷地区は、古くから多くの宗教者を魅惑した地であった。今日もまた、この地区にはそれを支えた多くの人々がすんでいる。私は、最近ここを訪れ、文殊院や窪野の人と言葉をかわした。
@八ツ塚古墳(衛門三郎の8人の子の墓伝説地)

平安時代、弘法大師への布施を断ったため、荏原の豪族、衛門三郎の子が次々の死亡した。その子を埋葬したという伝説の古墳。古墳は、6世紀末から7世紀はじめの群集墳。平地に残る古墳群は、道後平野では他にない。松山市指定文化財。(参考『ふるさと荏原』荏原小学校1987)
A文殊院


文殊院 四国西国秩父板東納経塔
衛門三郎の屋敷跡といわれる。また、弘法大師も宿泊したといわれている。衛門三郎は、子の死後、自分の非に気づき、弘法大師を追って、四国を回った。これが、四国巡礼の始まりという研究者もいる。境内には、文化九年(1812)銘の「四国西国秩父板東納経塔」の石造物と安永五年(1776)銘の「四国西国秩父板東供養塔」の石造物がある。前者は、「行者海圓」が近畿地方33所、秩父34所、関東33所の観音霊場と四国88所の計188所に教典を納めた納経塔である。修験道との関連がうかがわれる。後者は、同所への巡拝塔である。次に訪れた窪野町にも、天明四年(1784)銘の同種の巡拝塔があった。
B一遍上人の窪寺遺跡



窪野遠景 窪寺付近の庵(一遍上人顕彰碑) 十王さまの木像(平安・鎌倉時代?)
一遍上人は鎌倉時代、伊予の守護であった河野氏の一族として現在の愛媛県松山市に生まれた。山野で修行する修験道に関心深く、熊野で霊験をえて、踊り念仏で知られる時宗をたてた。生涯、全国を巡って遊行した。
一遍上人が滞在して修行をした地である窪寺は、窪野町の台地を上がったところにある。窪野町には、古い五輪塔や層塔、木造仏像、また、江戸時代の一字一石塔なども残っている。窪寺推定地の下手には、石室があって、古墳とされているが、横穴石室の形態ではなく、修験道行者が使った石室(いしむろ)であろう。一遍上人の鎌倉時代以前にさかのぼるか否かは不明である。(参考村上春次「一遍上人の窪寺遺跡について」伊予史談244号1982)
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